ひなた堂雑貨典

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徒然なるままに、日暮しPCに向かひて。心に移り行くよしなしごとを。

世にも奇妙な物語の考察。2話目「自縛者」因果応報の性悪説。

世にも奇妙な物語二話目「自縛者」の感想。
例によって、ドラマで観ていることを前提に好き勝手に感想を書くだけで、ネタバレもしているのでご注意ください。

 

正直この話、今回の中ではあまり印象がない話です。
(次の「ゴムゴムの実」があまりに強烈だから相対的にそうなったのかも知れませんが)

ヒロインも最後には父親を見殺しにした罪悪感で自縛者になってしまうけれど、家族満場一致で
「あんたは罪悪感持つ必要ないよ!!」
という同情ムードでした。
だって、ねぇ。いくら肉親でもあれだけひどい目に最後まで遭わされていたら、そりゃあ仕方ないよと。
情状酌量の余地がありすぎる。

まあ、この話の本質ってそうではないのでしょう。
自分の我が儘好き勝手放題に生き、余命いくばくも無くなっても昔捨てた娘に金を無心し当たり散らす、そんな悪人は自縛者にならないで、あれだけ酷い環境で育っても、明るく真っ直ぐな善人になった主人公が自縛者になってしまう。
理不尽な事です。
あの母親も口では「自業自得のバチが当たって病気になったんだ」なんて言いますが、そこに反省とか後悔とか、この話で言う所の罪悪感は無いのでしょう。
少なくとも、自分で自分を石にしてしまうような葛藤とかはないわけです。
やけっぱちになっているから「あーはいはいそうなんでしょ」位の適当な気持ちで言っているに過ぎない。

憎まれっ子世にはばかるというか。でもそういうことは現実にままあるよね、という。

でも、それだとあまりに救いも意味も無くなってしまいそうなのでもう少し考えます。

この話は、性善説性悪説の話なのだと思うのです。
最後の主人公のモノローグが「人は誰しも罪を背負っている。それに気付くか気付かないかなのだ」というような内容でした。(うろ覚えなので勝手に変えている可能性がありますが)
誰もが悪人なのです。

中盤までの主人公は、社会福祉NPOで一生懸命に働いて、自縛者の事にも必死で親身になろうとしますが、観ているこちらからするとそれがあまりに滑稽に見えるのです。
主人公の考える自縛の原因は「愛着」。
愛です。
ペットの犬の墓の側にいる自縛者に「きっと○○(犬の名前。忘れてしまいました)もあなたを許してくれる、あなたがそんな風になっていることなんか望んでいない!」と語りかける。
人は誰しも善い心を持っている。愛ゆえに自分を縛ってしまう。でも大丈夫、誰も人を縛る事を望んだりしない!
キラキラした世界観です。愛と夢と希望が最後に残るハッピーな世界です。つまり性善説

一方で実際の主人公の生い立ちや現在はというと、そんな世界とは真逆の残酷で悲惨なものです。
だからこそ、キラキラハッピーな世界を信じたいのだろうし、そう振る舞うのでしょうが、傍から見れば痛々しい。可哀想を通り越して愚かしいと思う程に。

そんな彼女も、今まで見てきた自縛者、自縛者になってしまった恋人、そして自分の過去と向き合った結果自縛者になってしまう。
必死で目を背けて無いものと思っていた罪、人の汚い部分に気付いてしまう。
そして「人は誰しも罪を背負っている」。この世界は性悪説の世界なんだと語る彼女は、母親が入院している病院の前で石になっていくわけです。母親のいる病室を睨むような形で。
この場所なのは、彼女が選んだわけではないでしょう。「たまたま」見殺しにした最低な父親と同じ病院に、最低な母親が今入院しているだけで。
彼女が自縛者になってしまったことは、病院関係者が騒いでいましたからすぐに母親の知る所となるはずです。完全に石になってしまうまでは流石に撤去もされないようなので、しばらくあのまま在るはずです。
さて、あの図太い憎まれっ子の母親はどうなるのでしょう。
娘の罪は知らないでしょうし、どうして自縛者になったかまでは分からないと思います。でも、恨みがましい目で自分の部屋を見据えて立ち続ける娘に、今までのように軽口を叩くだけで過ごせるものでしょうか。
カーテンを閉め、部屋を変えて、石になった娘が撤去されたとして、それで寿命が尽きるまでケロッと生きていけるのか。
「自分もああなってしまうのではないか」
そう思った瞬間に、母親もまた、自分の罪と向き合う羽目になるのではないでしょうか。

因果応報。彼女自身が自分はそうだと口にしているのですから。

これが、この話のダークさかな、という感想でした。