ひなた堂雑貨典

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徒然なるままに、日暮しPCに向かひて。心に移り行くよしなしごとを。

ユリ熊嵐最終回を見終えたのでだらだら考察もどきをする。

アニメ「ユリ熊嵐」の最終回がGyaOで配信されたので見てきました。
全体的に見ればラストにちょっと涙したし、この時点で一話から一気見したいな~とも思うので、良かったのですが。
な、なんだろう。
何かがもにょるのです。
ネットで見る意見とはまたちょっと違うような…。

という訳でだらだらとユリ熊嵐考察。

ユリ熊嵐とは
少女革命ウテナ」とか「輪るピングドラム」を作った人のオリジナルアニメです。まる。
いや、すみません。上記作品をちらっとでも観た方なら分かっていただけると思うのですが、言葉であらすじを説明するのが難しいんですよ。
あらすじは書けるけど、文字で書いただけでは「は?」って感じのトンデモ設定を前提に始まる話なので。
そして、ぱっと見は何もかもトンデモに見えるのですが、それらは象徴化されているだけで実際には現実にごくありふれた事柄だよ、というのが割りとすぐに理解できる作りになっているので…私などが説明すると価値が無くなりそうです。
なので気になる方は実際に見てください。一話から通しで。途中からだと何が何やら分からないと思います。

しかし「ユリ」熊嵐というくらいなので、ガール・ミーツ・ガールだし女の子ではないキャラは4人しか登場しないのですが、いわゆる百合アニメを期待するとちょっと違うとがっかりするでしょうし、しかしOPから全裸少女がちゅっちゅしたりもするので、初見は取っ付きづらい印象はあります…。
個人的に、「魔法少女まどか☆マギカ」を受け入れられる人は観れると思います。
2つの作品は全然別物ですが、「基本女の子しか出てこない」「よくある○○モノと見せかけた別の何か」という点では一致するので。

前置き長っ!!
本題に入ります。
何が私をもにょらせたのか。
以降最終話ネタバレなので注意。

 

 

うーーーん「イイハナシダッタナー」とは思うのですが、正直紅羽がどうして急にそこまで銀子をスキになったのかが理解できませんでした。
6話で炎に飛び込んで紅羽のスキを守ってくれた~からの7話の紅羽の心が急接近なのはともかく、そこからの紅羽、いきなり銀子の事大好き過ぎでは…?と。
最終話まで見たらスッキリする理由があるのかと思いきや、元々友達でスキだった、今はそれを忘れているだけだったから、という…うーん?
まあ確かに毎回の開幕モノローグ「私たちは最初からあなたたちが大嫌いで 最初からあなたたちが大好きだった。だから、本当の友達になりたかった。あの壁を超えて」の通りですね…。
自然に忘れた関係じゃなくて、契約で強制的に忘れているだけ(で最初から大嫌いと思い込んでいた)だから、自分で思い出せば「最初から大好きだった。だから本当の友達になりたい」なのかな。

辻褄は合うけれど納得が出来ない~。
なんだか、純花の事をとっとと過去にしてハイ次銀子!!みたいに見えてそりゃあ無いぜ紅羽と思ってしまいます。
お母さんの澪愛さんがスキの対象をユリーカから紅羽に切り替えてしまったのと同じような気がする…。
いやあれは二人の「スキ」の内容が食い違っていたからなんですがね…。

あと、序盤であれだけ「私はクマを許さない、私はクマを破壊する」を繰り返していたので変わり身早いとも思っていたのですが、そこは最終回と絵本の内容でスッキリ出来ました。
幼い紅羽はクマ(である銀子)を許せなく(=そのまま受け入れられなく)て、クマ(としての存在の銀子)を破壊(自分勝手で銀子を人間にして)しまったからそれは罪だし二人は壁で断絶される。
でも、そういう「クマを拒絶する自分」を打ち砕けば(=自分がクマになる。相手を変えるのではなく自分が変わる)壁を超えて二人はずっと一緒にいられる。と。

あ。
漠然と忘れたままで現状に流されずに、自力で銀子へのスキを思い出していく話だから
「その透明な嵐に混じらず、見つけ出すんだ」
なのか。

この作品ひとつひとつの言葉に幾重にも意味があるから、考察して掘り返すの楽しいし気づくとハッとするけど、言葉で表現するの難しいよ!!

紅羽は純花を忘れたとかスキじゃなくなったわけではないし、むしろ紅羽にとってのクマリア様にまで昇華しちゃったのだから扱い軽くなるどころか女神尊いなんですが…なんかそれはもうスキというものではない気が…。

スキより上になったからいいのか…?
むしろ銀子にとってのクマリア様は今もずっと紅羽のままなのに、紅羽のクマリア様は永遠に純花でしかありえないから、銀子の片思いも永遠になってちょっと銀子が可哀想なのであって決して銀子大勝利エンドじゃないよっていう、なんだか自分に言い聞かせる感じの考察を始めてしまいました

つまり私がなんで納得出来ないかって、「主人公はころころ移り気しちゃやだー!」なんですよね。

少女漫画「NANA」の序盤で、なんやかんやあってようやく結ばれたはずのヒロインの彼氏があっさり浮気して乗り換え、ヒロインもばっさりそいつを振ってしまうという展開があり、この少女漫画としては当時ありえないリアルさが物議をかもしてNANAを有名にもしたのですがそれについて、作者矢沢あいさんがインタビューで
「現実ではよくある話だけれど、そんなのヒドイ許せない!!って思える若い子って本当に純なんですね」
というような事を(※私個人のざっくりした概要です)おっしゃっていて、「それ遠回しに展開にショック受けてる層はガキって言われてる??」とカチンと来たものですが。

この歳になって…この歳になってもまだ私の恋愛への考えが10代の夢見がちなガキのままなのか…なんだか自分自身にショックを受けてしまいます。

もしかすると、ネットで尊敬している書き手さん方が紅羽と銀子の関係は恋愛、ひいてはユリ熊嵐自体も恋愛の話という事を書いてらっしゃったのを断片的に拾って思い込んでいるから辛いのかもしれません。
純花と紅羽、紅羽と銀子を同じ「恋愛」の枠にはめ込むから自分の中の恋愛像と違って苦しむのかも。
せっかく本家本元が、あくまで「ともだち」「スキ」というふんわりした表現で通しているのだから、無理に恋愛に落とし込むことはないんですよね…。

ちょっと書いていてキリが無くなるので、ひとまず終わりにします。

ユリ熊嵐、深い。